第1弾 教育に大和魂を!!
某 海上自衛隊OB
我々日本人は宗教心に欠けるといわれるが、それに代わる精神的バックボーンとして、「もののあはれ」、「生成り」、「侘び、寂び」等に価値を見出す審美眼とも言うべき「大和心」、並びに神道、儒教や禅に由来すると考えられる倫理道徳観「武士道」を有している。

吉田松陰や新渡戸稲造、或は西郷隆盛等が敬愛したこの審美眼と倫理観を併せて「大和魂」と呼ぶならば、昨今の世情はこの「大和魂」の低下、欠如に起因すると思われる事件やニュースがあまりにも多い。金銭欲、肉欲、猟官等の欲望のため、子供や親、配偶者をも虐待し、果てには殺してしまう者。

老人や(精神的に)年端の行かない女・子供を狙う詐欺や高利貸し。謙虚さに欠ける経営者、官僚、政治家…等々。「慎み」、「謙虚」、「勤勉」、「克己」、即ち自制心、公徳心及び思い遣り、慈しみの心は、「仁」、「義」、「礼」、「智」、「信」、「忠」、「勇」、「孝」等と並んで「大和魂」として日本人に尊ばれ育まれた徳目であった。

この対極にあるのが、「傲慢」、「自惚れ」、「目立ちたがり」、「弱い者苛め」、「弱者切り捨て」、「独善」、「自己中心」等々の昨今の風潮であろう。即ちこの「大和魂」に欠ける人々が何と増えたことか。

この「大和魂」の低落の原因は、大東亜戦の敗戦による反動、即ち、戦時中に強調されたあまり、「大和魂=軍国主義」との誤った見方が世間に広まってしまったことや戦後の経済復興重視政策等いろいろあろうが、一番大きな原因は戦後教育の歪みにあると考えられる。

また、巷間で低落が嘆かれている「愛国心」、「民族愛」等は祖先、父母、先輩への敬愛、兄弟、同僚、隣人、子孫等への労わりや思い遣りの延長線上での発露に過ぎないのであって、教育、特に初・中等教育における精神教育や歴史教育を正常化することによって、「愛国心」、「民族愛」等が向上することは自明の理といえる。

即ち、日本独特の審美眼、倫理観である「大和心」と「武士道」を合わせた本来の意味での「大和魂」を初等教育段階から施すことによって現今の忌まわしい風潮は一掃できると思われる。

初・中等教育には知育、徳育、体育のバランスが重要だといわれるが、戦後教育では徳育が極端に軽視され過ぎた傾向にある。

徳育、即ち精神教育、道徳教育をもっと重視すべきであろう。と、言っても戦前の「忠君愛国」、「七生報国」式の精神万能や軍国主義的教育を復活しろと言うのでない。

自分の欲望を、他人のそれと調和させて、他人に迷惑に掛けない程度に自制できる「強い自制心」、祖先、父母、先輩や教師、上司を「敬う心」、部下、幼児、老人等の弱者を「労わり慈しむ心」、兄弟、隣人、同僚を「思い遣る心」、そして、人種、民族は違い、言葉、皮膚の色は違っても、この地上には自分とは異なる考え方や価値観を有する人々が住んでおり、これらに耳を傾けることの出来る「広い心」。

これらの心を初・中等教育期間に十分に育む必要がある。終戦から現在までの初・中等教育において、この心の教育が疎かにされてきた結果が前述した昨今の風潮と考えられる。

現在の日本でも、知的、或は技術的な分野においては賢人(この言葉を生存者に対して使うのは、個人的に大嫌いであるが)、専門家と呼ばれる人々は夫々に育っているのであろう。

しかし、昨今の風潮を見るに、それらの専門家と言われる人々に、ここでいうところの「大和魂」に欠ける人々があまりにも多いのである。中央で社会医療制度を審議する委員でありながら収賄罪で起訴された専門家。

法定数以上の株式を保有しており、それが暴露されそうになるとインサイダー取引まがいで取引先に売り抜けた財界の大物。

公衆の面前で女子社員に強制わいせつまがいのセクハラをして起訴された元経営者。庶民が積み立てた年金財源で天下り先の施設を赤字覚悟で多数作って、数年後は維持費が嵩むと建設費の数%の値段で叩き売ったりする厚労省や社会保険庁の官僚群。

計画時には、数年後は無料化するといって建設した高速有料道路も他の道路建設の費用に回すためと称し、一向に無料化されないばかりか、逆に値上げし、それでも足りずに国費を注ぎ込むみ、それを食い物にする公団OBや政治家等々…枚挙に暇がない。

ヨーロッパ諸国の指導者層には騎士道に由来する「ノーブレス・オブリージュ」という公に尽す義務観念があると聞くが、我国には、もっと幅広く、奥の深い倫理観、「大和魂」がある、いや、あったのである。

私には、この「大和魂」の高揚こそが、今の日本にとって焦眉の急務と思えて仕方ない。そしてこれには家庭における躾とともに、小・中学校における徳育の充実が必須と信じるのである。更に、これら「大和魂」に欠ける人々を厳しく糾弾する風潮や世論を喚起することも又大事な事と思える。

即ち、法定罰を厳しく改め、各種の入学、採用試験や昇任査定に際し、或は、重要な公の審議委員の任命・委嘱時には、知識、感性、技術のみを尺度とすることなく、人格、即ち道徳心の高低にも配慮した基準、尺度の検討を痛感する。特に教職員の不祥事が多発する現在、その免許取得、更新や採用方法には早急な改革が必要性であろう。

教職員の不祥事が起きた際に、当事者の処分と一片の通達発簡のみで事を納めようとする教育委員会や教育長の態度にも疑問が残る。問題の教職員を採用し、管理している責任が自らにあるとの認識が全く汲み取れないのである。「教育は国の根幹であり、教師は聖職なり」との自覚を関係者に強く促したいものである。

 更に、教育の内容についても、「個性」や「平等」を重視するあまり、人間が社会生活を営む上での必要最小限の知識、道徳、体力が付与されているとは思えないのである。教育者は被教育者やその親におもねることなく、威厳を持って教育に臨むべきであろう。

一般的に言えば、いつの世でも教育を受ける側には或る程度の苦渋を伴うのは当たり前である。その苦渋を如何に軽減してバランス良く、かつ如何に効率良く教えるかが教育技術であろうし、被教育者にとっては、その苦渋に耐え、徐々に知識や技術を身につけ心身が生長して行く過程での充実感を自覚させることも大事なのである。

「ゆとり教育」と称して教育内容を削減するが如きは、教育者の被教育者やその父母(国民の大多数であるが)への迎合に他ならない。

運動や学習結果を競い合う事は、「不平等を生み差別意識を醸成し民主主義や平等の原則に反する」と、日教組は教育の現場から競争による教育技法を追放して久しい。競争に敗れることによって自分の欠点や弱点を自覚し、屈辱を味合い、自らを律する能力を培うことも才能を伸ばすのと同時に教育の重要な使命であるはずである。

しかし、近年になって漸く、この競争による教育技法の排除が人間の本能を無視し、現実社会との乖離を生じていることが、一部の知識人にも認識され出したのは喜ばしいことである。

更に、日教組や教育関係諸団体は「愛国心を押し付ける」のには反対だという。勿論、「愛国心」は彼らが言うとおり、「押しつけ」ないで、「自然に発露させた方」が良いに決まっている。

しかし、「愛国心」の低落・衰退は著しく、「押しつけ」でもしない限り、教育の荒廃が国の将来を危惧せざるような状況にしてしまったからには、致し方がないのである。

「押しつけ」は次善の策でしかないのである。今まで教育現場に携わってきた日教組の過去の罪を早急に清算するという意味合いも多分にあるのである。

「大和魂」を十分体得さえしておれば、当然の結果として「愛国心」は備わるのであるから。

いずれにしても、文科省、地方の教育委員会及び日教組の犯した罪は決して軽いものではない。日本の良き伝統、文化に立脚した教育への改革が早急に望まれる所以である。

吉田松陰 辞世の句 「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちるとも 留め置かまし大和魂」