第2弾 人の価値観は千差万別 
某 海上自衛隊OB
神の存在を信じる人、信じない人。性悪説の者、性善説を採る者。そして、多神教の民族、一神教の民族。また、自我の強い人、協調性に富む人。等々…。

人間は顔が夫々異なる様に、その考え方、行動基準、尺度はまちまちである。他人の考え方に迎合したり賛同したりする必要はないものの、いろんな考え方があることを理解する度量を持つ事がこの世を渡っていく上では必要であろう。

イスラムの教えでは「礼拝」や「断食」、「巡礼」とともに、「喜捨」を「5行」の1つに掲げて教徒の義務としていると聞く。

即ち、富める国や人々が貧しいイスラムの世界に物資を援助しても、彼らは、「富める者が行なう当然のこと」と受け取り、我々が感じる感謝や恩顧の念とは程遠いものであるらしい。

更に、教義のためなら、人を殺しても良心の痛みを感じない人々の世界も存在するのである。「人の命は地球より重い」と、逮捕拘留中のテロリストを釈放した日本人には、到底理解できないような人々もこの地球上には存在することを理解する必要があろう。

我々老人の感覚からすれば、奇異と感じる言動や考えも、若い世代には常識の範囲と捉えられる事象が多々ある。

国内においてさえ、価値観の多様化傾向は近年益々加速化されているように見える。我々の今日の常識は明日の非常識になるのかも知れない。他人の考えに共鳴同化する必要はないが、世の中にはいろんな価値観や世界観があることを認識する必要は、通信手段が発達した今日、益々増大してきている。

わが国の首相や政府高官が靖国神社に参拝したことについて中韓両国政府は強く非難してきたが、わが国民の価値観や世界観をよく認識したうえでの非難なのであろうか。

内政上の一行事に過ぎず、両国を非難する様な声明を発したわけでもない。わが国では、「罪を憎んで、人を憎まず」という気風がある。

一歩下がって今日にして思えば、A級戦犯の犯した罪は罪と認めても、靖国神社に合祀されている人々は、当時の大多数の国民にとっては「国家のため尽力した尊い人々」であったのであり、今では神となっているのである。

東京裁判の結果が基準となってしまった今日の尺度に照らせば、彼らの言動が誤っていたという見方もできるかもしれない。しかし、当時の環境のもと、当時の法的或いは政治的な評価尺度で彼らの言動を誤りと断定できたとは思えないのである。

もし、現在の尺度によって歴史上の事実を判定することが許されるのであれば、元〈蒙古〉のフビライハンやナポレオンが版図を拡大していった事実は侵略であり、米国の原爆投下による非戦闘員の無差別殺戮は重大な戦争法規違反といえるが、彼らはそれが最善の方法と信じていたに違いないのである。

従って、「罪を憎んで、人を憎まず」という寛容な態度で、歴史を読むという態度が大事ではなかろうか。また、日本においては、親鸞の説く、「悪人正機説(善人でさえ仏になるのであれば、悪人が仏になれないはずはない)」が広く信じられている。

中韓両国政府に、日本人のこの価値観、世界観を少しでも理解しようとする態度があれば、首相の靖国神社参拝にあれだけの反発は起きないであろうに…。他国の外務省情報局かのように、大げさに報道するわが国のマスメディアにも不満はあるのだが…。