竜虎80年後の奇縁
倉重末喜(倉重つよし県議の厳父) 想い出の記「顔施」の中に、寄稿された元知事細川護煕氏の中に、済々黌時代に末喜先生が書かれた喧嘩懺悔録なるものを拝読させていただき、当時先生は大変な暴れん坊であったことを知った!との一節がありました。当時の悪ごろは、無邪気であり先生に歯向かうことなどなく、三尺下がって師の影を踏まずの精神であった。末喜先生が、済々黌時代、大変有名な喧嘩事件があり、80年ぶりにその当事者の子供がはからずも肝胆あい照らし、会合することとなり、一夜を共に飲み明かすこととなった。
そのことを当事者の従兄であられます大塚樹也氏(済々黌26年卒業・現 植木病院 上村病院 顧問)が語ってくれました。
従兄「大塚一太」のこと
小生の従兄「大塚一太」は、大塚家の本家下ノ段の長男で、大塚家の大黒柱だった。
小生は、幼少時、父が陸軍の薬剤官だったため、岐阜市で生まれ、広島、大村、北朝鮮の羅南と父の任地を転々と移転して育った。幼い頃には父の本家を何度か訪れて「一太兄さん」とは会っていたらしいが、全く記憶がなかった。
昭和16年12月8日に第二次世界大戦が勃発し、北朝鮮の羅南の陸軍病院の薬局長であった父は、昭和17年2月に羅南を発って南方に出征した。同年3月に小生らの留守家族も郷里の熊本へ引き揚げることとなった。母は幼かった小生ら子供5人(姉・小生・3人の妹たち)を連れて帰らなければならなかったので、一太兄さんに羅南まで迎えにきてもらった。
従兄といっても、物心ついて初めて会った「一太兄さん」は、親子ほど年は離れていたが大変優しかった。
一太兄さんは、昭和2年に済々黌を卒業し旧制の三重高等農林学校を出て、菊池東部実業学校(後の大津産業高校、現在の翔陽高校)の教師を経て、大津町の助役を勤めていた。
その「一太兄さん」は、2年後の終戦間際の昭和19年に招集され、30歳の若さで4人の幼い子供を残してフィリピンのルソン島で戦死して帰らぬ人となった。
あの優しかった「一太兄さん」にも、学生時代には色々と武勇伝があったらしい。その中でも故倉重末喜氏(元熊本県議、現熊本県議倉重剛氏の御父上)との喧嘩は有名で、後世の語り草になっていた。
小生の父の兄弟は、3人とも済々黌出身で、父の従兄たちも皆済々黌出身だった。長男の大塚典治(一太の父)はそうでもなかったが、次兄の石原隆と小生の父大塚樹一は悪童で有名だったらしい。その影響で、一太兄さんも悪ごろだったようだ。
小生が熊本大学医学部に入学したとき、事務の女性から「大塚さんは大津なら県会議員の倉重さんと喧嘩したつは、あなたのお父さんではなかとね?」と聞かれた。
そのはっきりとした経緯は判らないが、一太兄さんが5年生代表で倉重末喜氏が4年生代表で、全校生徒が見守る中で、下駄で殴り合いの大喧嘩をしたらしい。
小生は、倉重末喜氏がお元気だった頃、「大塚一太の従兄です」と自己紹介したことはあったが、前々からご子息の倉重剛県議と一太の息子の大塚勝彦を引き合わせて握手させたいと思っていた。
先日、京毅氏(倉重剛県議の秘書)のお世話で、永年の願いがかなって80年前に殴りあった息子同士が同席して宴席を設けて頂いて、今後の友情を誓い合って握手をすることが出来て、小生はとても嬉しかった。
※大塚勝彦氏は、熊本高校、慶応大学、サッポロビールの役員であった。
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